もしも生まれかわりが無かったら?
※本当の現実の仕組みについての記事は、こちらのカテゴリーにまとめております。生まれかわり、輪廻転生、来世・・・。
わたしは、これらは無いと考えています。
『同じ魂が色んな人生を経験し、その中で過去世と出会った人たちとまた巡り合う』
例えば、こういうストーリーはとってもロマンティックだと感じます。
今、自分が経験していることも、「過去世からの縁かもしれない・・」と考えるととても壮大なストーリーにも感じます。
でも、この物理次元での経験が自分の唯一の体験になるとしたら。。。?
今の個性での経験・体験は、今回の人生で最後なのだとしたら?
きっと、意識がまるっと変わると思うのです。
多くの人が持っている「生まれかわり」の概念は、今の自分の個性が何度でも生まれ変わり、様々な経験をする・・といったものだと思います。
前世の記憶が無いだけで、同じ個性で様々な時代を体験/経験していると。
たまに冗談で『今世は諦めた!来世で頑張る!』なんて言葉を耳にしたりもします。
でも、この概念は冗談だとバカになど出来ません。
自分で感じているよりも深いところまで浸透してしまっている概念だからです。
なぜなら「また次がある」と思うと、この冗談のように今を投げ出してしまうことだってあるのですから。
次など無い!だから我慢などしている場合ではない!
生まれ変わりはありますよ。ただ、『今この個性をそのまま持って』では無いと捉えています。
恐らく、この肉体から離れる時、今持っている概念とは全く違うものになるでしょう。
ただ「自分がここにいる」という意識はそのまま、いえ、もっともっと強烈に「いる」という意識を感じるかもしれないとも思っています。
「いる」という感覚はありありと感じられるけれど、この「個性」はソースエネルギーと融合するのだと捉えています。(今ある自分という概念が溶けてなくなるわけではない)
そうであるならば、この肉体から離れる時、その顔を見て「ああ、充分体験した!!!わたしの肉体よ、本当にありがとう!!!」と心から感謝し離れたいと思います。
それには、今、我慢なんてしている場合では無いんですよ。
我慢なんてしていたら「十分に体験した!!!」なんて言えないですもの。
やりたいこと、好きなことを我慢して、やりたくないことに時間を費やしている暇なんて無いんですよ。
『過去世/今世/来世』という概念は宗教からきたものです。
キリスト教、仏教をはじめ、宗教は支配するために作った、そのための都合の良いツールです。
「今世で徳を積めば来世は素晴らしいものになる」と言われれば、今の人生を我慢させることが容易になります。
暴力での支配はやがて反乱が起きます。
だから宗教は都合が良いのです。
現に今でも多くの人々に信頼され、それゆえ都合よく操れます。
あなたは、あなたの肉体から離れる時「十分に体験出来た!!!わたしの肉体よ、ありがとう!!!」と言えなくても良いのですか?
我慢をしていると、きっとこうは言えません。
「我慢すること自体が、わたしの経験したいことの全てだ!」という人以外は、ね。
スポンサーリンク
コメント