言語化するまでもない小さな違和感
『なんのために生きているのだろう…』こう呟く知人がいました。
以前勤めていた会社の同僚です。
はっきりとは言語化するまでもない、小さな疑問が頭をよぎることはありませんか?
『何かが違う』
言語化すればこんな言葉でしょうか。
何かが違うと感じながらも日々の忙しさで熟考することもなく、その思いはスルーされる。
そしていつもの目まぐるしい日常に戻り、無思考にそのまま日々が消費されていく。
そしてまた「あぁ疲れた…。何のために生きているのだろう』と我に返る。
わたしも似たような思いを抱いたことがありました。
今から20数年前、ふとあることに気が付いたのです。
「わたしは、なぜ“自由”という言葉にこんなに惹かれるのだろう…」と。
その時のわたしの表層意識では、自分は自由だと感じていました。
日本という国は比較的自由であると認識していたし(今は全く思っていませんが)、周りにうるさく何かを言ってくる人もいない。
でも“自由”という言葉に惹かれるということは、今“不自由”だと認識しているということだと気が付いたのです。
そんな折、ある記事を見つけて「これだ!!!これが真実だから、現状を不自由だと感じていたんだ!」と直感的に理解できました。
(いつも思いますが、直観からくるものって自分の中に迷いがありませんね)
そのある記事とは、自分の内面が現実世界を映し出している、という類のものです。
そこから108さんらの掲示板へのカキコミへと繋がり、本当の物理法則を知る探求が始まりました。
現在の立ち位置をはっきりと認識する
わたしたちは、本来全く自由な存在なのです。
9時-17時まで働くのが当たり前だと思い込まされているだけなんです。
どこかの企業で働かなきゃ食べていけないと思い込まされているだけなんです。
貨幣システムがとても利便性の高いものだと思い込まされているだけなんです。
わたしたちは選ぶことも無いまま、生まれた瞬間からこれが当たり前だと思い込まされてきました。
だから『何かがおかしい』『不自由だ』と肌で感じるのです。
学校や会社に行くために、起きたくもない時間に起き、乗りたくもない満員電車に揺られ、食べたくもない時間にご飯を一斉に食べさせられ、それとは逆にお腹が空いているのに時間が来るまでは食べてはいけない。
中学生の頃から制服を着せられ、その影響で人と違うことをすることに大きな抵抗感を抱くようになっている。
学校教育では、常に平均点を目標とされ、得意な科目は放っておいて苦手科目を平均点にもっていくようにさせられる。
人はそれぞれ得意なこと/不得手なことは違って当たり前で、それは単なる個性にすぎないのに、不得手なことに焦点を合わせられ続け、やってもなかなか上手く出来ない不得手なことと取り組まされる。
そしてそれは、いつしか『自分は出来ないダメな人間』という自分へのレッテル貼りへと繋がる。
いつも他人と比較するという意識へと繋がる。
こうしてわたしたちは、「自分の可能性」を自ら作った小さな小さな檻の中へ閉じ込める教育(洗脳)されているのです。
本来わたしたちは、無限の可能性を持っています。
こんな小さな小さな檻で作った可能性などでは決して無いのです。
本気で取り組めば、なんだって出来るのです。
けれど、そこへ目を向けさせないようにシステムが構築されてしまっています。
そのことをはっきり自覚できるか否かが重要なキーポイントだと思っています。
まず、自分の現在の立ち位置をはっきりと自覚していないと動きようがありません。
どこへ動くのかも、そもそも動きたいのかもわからなくなります。
まず、ジワジワと長い間壊され続けた自己肯定感を回復させる。
それには、まず現在の立ち位置を知ることです。
きちんと自覚することなのです。
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