わたしはいる
ちょっとノンデュアリティーのブログ風に書いてみました(というか、ちょっと喧嘩売ってるみたいだ

非二元を強調する人たちが綴るブログには、頻繁に「わたしはいない」という言葉が出てきます。
(物理次元を体験している)“わたし”はいない。
ただ、起こることが起きているだけ。
思考も感情も“わたし”ではない。
ただ、湧いてくるだけ。
“わたし”にはこれらをコントロールすることは出来ない。
嫌なことが起きても、それを「嫌だ」と判断しているのは“わたし”
しかし、“わたし”はいないのだから、「嫌だ」も無いのだ。
こんな感じでしょうか。
これに非常に違和感を感じて、この人たちの記事をまったく読まなくなりました。
この次元に“わたし”がいないという意味はなんとなく分かる。
この物理次元はいわゆる幻想なのだから。
ゆえに、そこに存在している個の“わたし”も幻想だ。
じゃあ、わたしたちがこの物理次元にきた意味は何???
『起こることが起きているだけ』って、『“わたし”に自由意思は無い』って、そんなんだったらこの次元に生まれてくる意味無くない???
わたしは、そんなつまらん世界なら絶対この世に生まれてきていないと断言するわ。
意味無いやん。
ただただ起こることを受け入れるだけ。
ただただ「わたしはいないから」と淡々とやり過ごすだけ。
こんなんで生きてて楽しい???
何度も言うけど、さっぱり理解出来ないわ。
わたしは、わたしをより感じるために自ら創ったこの幻想である物理次元にきた。
だけど、このゲームを楽しむには一定のルールがある。
・物理次元の“わたし”は本当のわたしをすっかり忘れる(途中で思い出すのもあり)
(そうすることで、この次元を思い切り楽しむことが出来る)
・ただし、物理次元の“わたし”と本当のわたしは切れた存在ではない。本当のわたしは、いつも直観というヒントを与えてくれている。それを受け取るか否かは、物理次元の“わたし”次第。いわば、この物理次元で体験することは、“わたし”とわたしの二人三脚である。
物理次元のわたしがいないと現実でなんも体験は出来ないし、しかもこの物理次元での体験の主導権を持っているのは、もちろん物理次元のわたしだということ。
起こる事象についてはコントロールは確かに出来ない。
というよりコントロールをする必要が無い。
「コントロールしなければ」ということは、前提が間違っているということだから。
したい体験を選べば、コントロールは要らない。
わたしたちには選ぶ権利がある。
したくない体験はしなくて良いのだ。
「起きることが起きているだけ」となすがままに受け入れる必要なんざ無いのだ。
それどころか、(望むのであれば)無尽蔵なる充足を体験するべきなのだ。
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