嫌がり続けると再生し続ける
この記事で、最近嫌なことは起こらないと書いたのですが、実は以前からとても苦手なことがわたしにはあります。それは、歩いている時に人からじーっと見られることです。
家族や仕事で接する人で嫌なことは殆どないのですが、わたしにとって『何も関係が無いただの通行人』のこの視線がもうかなり前から嫌だと感じていることでした。
大阪に住んでいた頃は気にもならなかったのですが、京都に戻ってから気になるようになりました。
気のせいかと思いずっと視線を外していても、チラッと確認するとバッチリこっちを見ている。
時には、振り返ってまでわたしを見る人もいる。
男性ならわかるんですよ。
異性を目で追ってしまうのは、本能とも言えるわけで・・。
でも同性である女性からじーっと見られるのは、なんだか観察されているようで、わたしは気分が良くありません。
当然、わたしは目立つほどの美しい容姿を持ち合わせているわけではありません
それで最近、
「現実世界はわたしの内面の投影で、言わば、わたしの為に、
わたしだけの為に、わたしの生きる現実は存在している。
なら、人から見られると感じているこの現象を、
わたしに都合のいい解釈を付けてしまえばいいじゃないの」
と思いました。
『歩くだけで、わたしは人々の視線を奪っちゃうんだなぁ。
わたしの素晴らしさや輝きを無意識に感じて、
思わず羨望と嫉妬の視線を送ってしまうのも無理ないよ』
こういう解釈を付ければ気分も良いし、その視線を「好きなだけ見るが良いぞ」とばかりに受け入れられました。
そしたら、なんとっっっ
視線を受け入れた途端、こちらを見る人がいなくなったんですよまぢです
なんだか気持ちの良いくらいに素通りして行ってくれる。。。
やはり、嫌だ嫌だと感じる現象は「手放すべき観念がありますよ」というサインなんですね。
わたしの場合、
「ジロジロ見られる→他人から観察されている/下に見られている」
という、なんとも自虐的な観念を持っていたことがわかりました。
しかも「下に見られる→人から攻撃される→自分には力が無い」
こんな観念も紐づいていたことが判明しました
また「自分には力が無い」ですか!!!!
どんだけ力を持ちたくないのよ~~~~~~~~~~~、わたし
これだけ頑なに力を持つことを拒んでいるということは、
力を持つことを完全に許せば、軽々と少しのエネルギーで
100%思い通りの人生を容易く歩いていくということでしょうね。
もう悩めないし、落ち込めないし、苦しむことも出来ない。
わたしは、もう悩んだり落ち込んだり苦しんだり、一喜一憂する人生はたくさんなので、この楽しみ方からは卒業する人生を歩いていきます。
もし同じような思いをお持ちであるなら、嫌な現象が起こった時は、それを恐れずに受け入れることをおススメします。
わたしたちは、嫌な現象を恐れているのではなく、その時の感情を恐れています。
今回のわたしとは違い保持している観念がわからなくても、嫌なことを受け入れ、その感情を認めて感じていると、その感情は段々消えていきます。
すると、その現象自体も消えていきます。
受け入れれば消えます。
そもそも嫌なことなんて、実体のない幻想なのですから。
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