慣れ親しんだ受け身の考え方を手放す。現実様に主権を預けない
『わたしの現実世界に起きていることは、わたし自身の内面の反映にすぎない』
この事実がわかってから、自分にとって嬉しくない現実が起きても、いちいち気にならなくなってきました。(と言っても、最近嫌なことは殆ど起こりませんが。。)
「この現実は、わたしの内面が見せているものだな」
「わたしの内面のどの部分(観念)が、この現実を反映したのだろう」と投げかけていると、その答えは大体返ってくる。
そしたら後は簡単。
その保持していた望まない観念を観察し(観察と言っても「あー、こんな観念を持っていたのか」と他人事のように認めるだけ)、手放す。
それから望む現実を、わたしの内面で味わう。
この内面で味わった感覚こそが、実体そのものなのだから。
そしてこの内面の感覚が、虚像である現実世界にやがて投影される、という仕組みだ。
これまでわたしの生きる世界がダイナミックに変化しなかったのは、現実様にお伺いを立てていたからだと思われます。
『現実化したかな・・(チラ見』
『〇〇すれば、現実化するはず!(ドキドキ)』
こんな風に心の中で、現実様にビクビクお伺いを立てていた。
現実様にビクビクお伺いを立てる=現実>自分=自分には力が無い
で、「それまでと変わり映えの無い現実がずっと生産される」の出来上がり(´・ω・`)
そりゃそうですわな。
現実様に主権を預けちゃっているんだもの。
わたしの生きる世界の決定権は、すべてわたしに有る。
これをいちいち思い出すようにする。
この現実世界が幻想であると気づいたなら、あとは慣れの問題だけ。
「あ。目の前の現実はわたしの観念が見せているものだった。この世界はもういいから、望みの世界を見よう」と味わうだけ。
わたしのように受け身がちで気の弱いタイプの人間は、これを「いちいち」思い出した方が良いと思うのです。
主体的な人は、自分の決定権を自分以外に明け渡すことはないと思うのですよ。
ナチュラルに「そうなる」と信じている。
例えば、デヴィ婦人がまだ貧乏な学生の頃、小説に出てくる舞踏会の貴婦人に憧れて「わたしもきっと貴婦人になる」と決定したように。
本来自信を持つことすら関係無くて、ただ「決定権は自分だけにある」というだけのこと。
今見ている現実は、図らずも自分で選択したものだ。
そのことを潔く認めて手放して、本当に求めているものを、既にある創造済の世界を味わうのです。
『わたしは創造主であり神である。
なので、現実に投影される前に
わたしが既に創造済の望む現実へ焦点を合わせ味わうことは、
全くの正しい行為である』
誰の格言かって?
この世で生きる為のわたしの格言です(笑)
にほんブログ村
スポンサーリンク
コメント